古地図で巡る橋さんぽ 前半 清水橋~鍛冶橋 女鳥羽川再発見プロジェクト連続講座フィールドワーク
7月9日(土)晴天
女鳥羽川再発見プロジェクト連続講座 女鳥羽川を江戸~明治~大正の古地図、昭和の地図から読み取りながら学ぶフィールドワーク
「古地図で巡る橋さんぽ」参加しました。
普段何気なくすーっと通り過ぎてしまう橋。
でも足を止めてみると、まちと共に刻んできた歴史を感じたり、眺めや水音を楽しめたり、橋の持つ色々な魅力に気づかされます。
今回は、かつての城下町の中でも最も橋が密集していた清水橋から千歳橋までの区間を、古地図片手に橋と女鳥羽川とまちの物語を五感で感じるさんぽをします。(女鳥羽川再発見プロジェクト連続講座の案内文より)
松本都市デザイン学習会「女鳥羽川再発見講座2021〜」の一環としてのフィールドワーク
昨年7月に開催された女鳥羽川再発見プロジェクト連続講座を聞いて、古地図を見て、この場所は古くから橋が密集していた場所だと気づき実践版を企画しました。
講座レポート↓
「女鳥羽川という川」その流れは人工的ではない⁉女鳥羽川再発見連続講座 第1回#女鳥羽川
古地図を片手に、約800mの区間の現存する橋、今はない橋を11箇所、時に下に潜り、時にタイムスリップをしながら、普段しない方法で散歩を楽しみます。
最初に女鳥羽川の地形・流域の歴史のレクチャーを受けました。
流域を変えていった女鳥羽川
80万年前ぐらいから西と東の山からの土砂が運ばれ、溜まってできたのが松本盆地。
40~30万年に城山礫層が堆積した。30万年前以降に城山が隆起し、女鳥羽川は流路を南に変えた。
松本平は、複数の河川がつくる複合扇状地が見られる。
西は槍ケ岳、北アルプスからの梓川、南は木曽山脈からの奈良井川、東は美ヶ原や三峰山からの薄川、三才山などからの女鳥羽川。
写真資料 下 いく筋もの流路の跡が今も残っている。
人の住むところに水が流れないように近世の川は霞堤や堤防など治水工事が行われ、近代以降も河床の幅を広げ深くして流路が変わらないようにしている意味では今の河川は人工的な空間。
「女鳥羽川は縄文時代に蟻ヶ崎を流れていたが、流路を東へ移す。古墳時代には現在より東を流れていたが、戦国時代から江戸時代にかけて現在の流路になった」と松本市史には書かれているが、有史時代にどのように流路が変化してきたのかを確かめるには今後の研究が必要。
①清水橋 【昭和38年3月竣工】
明治10年前後の調査:幅員1間3尺(2.3m)、長12間(21.6m)土造
今の清水橋は昭和38年架設 長さ29.1m、幅5.5m
清水橋は城下町の東端で物流が集まるところ農産物、町場の物資
現在、清水橋のそばに燃料屋さんがあるのもその名残だと思います。(創業は昭和です)
山辺からの道・・・・・山辺方面からの物流の入口となる城下へ入る橋
女鳥羽川の位置と昔の清水橋上↑ 西側から見た清水橋 左奥に清水製紙場があった。
十王堂
松本城下町の入口に建立 東(餌差町)、南(博労町)、北(安原町)西(伊勢町)は地蔵堂
餌差町
餌差町は城下町の東の入り口にある武家地で、鷹に餌を差し出す役割の「餌差」が住んでいたことにちなむ名前。堀田氏の時代に鷹匠であった富坂氏が住んだため富坂町と呼ばれていたが、水野氏の2代目のときに餌差町と呼ぶようになったといわれている。
②全昌寺の橋 【江戸時代にあったが今はない】
・幕末の橋・・・寺も橋も文化5年(1808年)の地図にはあるが、享保13年(1728年)の地図にはない
2枚の古地図を比べると、上の幕末の地図には全昌寺と橋があるが、それより70年ほど前の享保年間の下の地図にはない。
全昌寺は、善昌寺とも書き、現在もそこにある。
元々は里山辺にある広澤寺の末寺。
全昌寺の橋が描かれているのはこの絵図のみ。明治7年や明治末に幕末の様子を描いた絵図にも橋は描かれておらず、明治10年前後の各町村の調査書にも全昌寺の橋は記載されず。相当に限定的な時期か、記載間違いも疑われるか。
③ 念来寺橋 【昭和36年3月竣工】
・橋の位置・・・・江戸時代と現代で橋の位置を変えているがなぜ?
現在よりも少し上流にありました。水害で橋が流されたりした為、新しい橋は既存の道路にまっすぐつながる位置に架けられました。
念来寺橋の付け替え・・まちづくり 橋の意味が江戸(防衛)から近代(交通)に変わる
明治10年前後の調査:幅1間、長9間、木製
現在の橋は、昭和34年の洪水後のもので昭和36年竣工。
廃仏棄釈で念来寺は鐘楼のみが残された。その理油は、時の鐘を告げる役割を果たすため。
念来寺の橋は、江戸時代は寺に行くためのものであったが、近代に道とつながる位置に付け替えられた。
護岸の色が濃い場所が旧念来寺橋のあったところです。・
女鳥羽川の曲がりは人工(武田信玄)か、自然の力か?
扇状地のぶつかりがつくる地形の中で、河川は低い地を流れていく。
女鳥羽川は武田信玄が流路を変更したという説もあるが、女鳥羽川がつくる扇状地は薄川の扇状地とぶつかるため谷ができる。その谷に流れる湯川や女鳥羽川の曲がった先は地形的に低いので川が流れるのは普通のことですが、曲がりを考える前に、扇状地の扇央部分の流路が自然のままではどうなのか?そもそも、女鳥羽川がなぜ現在1つの流路になっているのか?長い直線になっているのか?ということを考える必要があると思います。
・乗鞍岳の眺め・・・・橋は眺めの絶好の視点場
・河床勾配の変化・・・女鳥羽川の勾配の変化点→河床の形状、水の表情、水音
この辺りは、お寺が多いエリアです。
水害と寺の配置
川の曲がりの所に寺を配置。民家を配置していないのは水害に備えてのことではないかと想像します。
流れを受ける護岸・・・流れが護岸を削るため、護岸を後退させている
桜河岸・・・・地図に「桜河岸小路」とあるが、なぜ桜を植えたのか?
一説には桜の植樹による護岸強化のため
八代将軍徳川吉宗の時代(1716–45)に隅田堤に100本の桜を植えて、花見客を呼び寄せ、多くの人が歩くことで堤防を固めたと言われている。女鳥羽川の桜河岸も同じ時期なので、隅田堤に倣ったのではないかと想像します。真意はわかりません。
妙勝寺と大昌寺の間 以前ここに清水の湯という銭湯がありました。現在は、駐車場になっています。
④大昌寺の橋 【江戸時代にあったが今はない】
今はないこの橋の位置はどこでしょう?古地図に今も残る小路が手掛かり。
⑤鍛冶橋 【昭和36年3月竣工】
・水の記憶・・・・・古地図の湧水は伊織霊水ではないか
・新しい橋・・・・道路をつなぐ橋として建造
・常念岳の眺め・・・・わずかに見える
・川の流路・・・・S字にすることにより川の流れを抑え水害のリスクを軽減したのではないかと想像します。
・かつての飲食街・・・・寿司屋、スナック、電気屋さんの名残り
橋名板(ぎょうめいばん)の見方・・・・欄干の柱の名板のルール
道路の起点方向から見て左側に漢字表記の橋名、右側に交差する河川などの地物。
反対側、道路の終点方向から見て左側に竣工年月、右側にひらがな表記の橋名。
原則から外れているものもありますが、橋の欄干の四つの隅に、漢字、年月日、かな、川の名前、などがあることに変わりはありません。
また、ひらがな表記橋名では水が濁るのを嫌って濁点がないのですが、これも原則から外れているものもあります。
更に、竣工年月の表記もまちまちです。昭和30年代はまだ丗という書き方が残っていました。今はあまり見受けられません。
山家小路
山家小路は商人町。鍛治職人が住んでいたことから江戸時代後期には鍛冶町の名称が定着。橋の名前の由来。
現在の橋は昭和36年竣工
川の流路
S字にすることにより川の流れを岸にぶつけて水の勢いを緩め、水害を軽減したのではないか。
自然にある流れの位置を生かしながら、人工的に微調整をした可能性はある。
カルガモの子供たち
キョロキョロしながら泳いでいます。母はいずこ?
湧き水
街中では、女鳥羽川の地下から水が湧き出ているのを見ることができます。特に橋の下では多く見られるのは、欄干の工事の際に地下にくいを打ち刺激するので、水が湧くことが多いそうです。
生き残る植物
地中に深く根をはるつるよしは、洪水があっても流されない。川原で生き残る術を身に付けている生き残る植物です。
足元の砂地には、スズメが砂浴びをするアリ地獄の穴を大きくしたようなすり鉢状の穴がたくさんあります。
河床に降りる・・・・・石積みの種類
・女鳥羽川の拡幅・・・・江戸時代の橋の長さと現在の比較、拡幅前の石積の基礎
かつての飲食街を偲ぶ
寿司屋、スナック、電気屋さんの名残り
記事を書くにあたり、「女鳥羽川再発見プロジェクト連続講座 古地図で巡る橋さんぽのスタッフ」の皆さんにご協力頂きました。ありがとうございます。
松本は四神相応の地
四神相応(しじんそうおう)とは、東西南北の四方向を守る四神の存在に最もふさわしいといわれる地形や地相のことをいう。
四神とは、「東=青龍=大河」「西=白虎=大道」「南=朱雀=開けた地」「北=玄武=山や丘」で、地理的に松本は「東=大きな川=女鳥羽川」「西=大きな道=千国街道、野麦街道、奈良井川、犀川」「南=開けた地=大きな平野」「北=大きな山=城山、伊深、稲倉」と理にかなっている。(まつもと水巡りマップより)
大橋~千歳橋 後半に続く